三原田歌舞伎について
~旧赤城村社会科副読本から~
人々の楽しみ「歌舞伎」
今からおよそ200年くらい前のことです。
そのころの村人たちは、ほとんどが農民でした。農民は、わずかの田や畑をたがやしては「ねんぐ」というぜい金をとのさまにさし出さなければなりませんでした。そのため、働いても働いても苦しい毎日でした。
そんな生活をしていた農民の楽しみといえば、歌舞伎しばいをすることや、それを見物することでした。
とのさまは、「歌舞伎をする時間があればもっと働け。」と、しばしば歌舞伎をきんしする命令を出しました。しかし、農民はやめようとせず、かくれても行うようになりました。
毎日、朝からばんまで働き続けた農民にとって、歌舞伎は数少ない楽しみの一つだったのです。
歌舞伎には舞台が必要です。1819年(江戸時代の終わりごろ)、村人たちは、自分たちが使う舞台を作ろうと相談しました。そして、上三原田に生まれた大工「永井長治郎(ながい ちょうじろう)」にたのむことにしました。
歌舞伎舞台をつくる
1819年、永井長治郎が25才ごろ、村の人たちのたのみにより、上三原田の天龍寺の庭に、当時ではめずらしい歌舞伎用の回り舞台を作りました。その後、天龍寺が小学校として使われるようになり、歌舞伎舞台は1882(明治15)年に今の場所に移されました。
上三原田歌舞伎舞台のとくちょう
①二重せり
舞台の中央には6m30㎝ほどのマルイ回転するところがあり、見物席からは見えないところで次の場面のじゅんびができるようになっています。その中央には、長方形にしきられたあなが開いていて、これと同じ大きさのもう1つの舞台が、てんじょうから下がってきたり、地下から上がってきたりします。これを「二重せり」といいます。
②かんどうがえし
回り舞台は西が正面になり、北と南と東の板かべがたおれるようになっています。たおれたときに舞台の一部となり舞台は2倍の広さになります。これを「かんどうがえし」といいます。
③見物席
舞台西側の畑は、歌舞伎が行われる間だけ見物席になります。さらに、見物席の前は低く、後ろにいくにしたがって高くなり、どの席からでもよく見えるように工夫されています。
このようなすばらしいとくちょうをもっている回り舞台なので、1960(昭和35)年に国から重要有形民俗文化財に指定され、大切に保ぞんされることになりました。